京都 遺跡発掘調査 有限会社京都平安文化財 調査のながれ

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過去の発掘遺跡紹介

平安京右京四条一坊七町(朱雀院)跡

所  在 京都市右京区壬生天池町
調査期間 H25/04~H25/05
発掘面積 266.59㎡

平安京右京四条一坊七町(朱雀院)跡について

 この場所は、平安時代(794~1185年)の条坊制では、「平安京右京四条一坊七町」という区画にあたります。一辺が120mの長さをもつこの七町という区画は、天皇が譲位した後の御所、「朱雀院」の一角としてとして使われていました。
 この朱雀院は、『続日本後紀』という平安時代に編纂された文献にその名が記されていて、嵯峨上皇(786~842年・在位809~823年・平安京を造った桓武天皇の子)の時代、承和年間(834~843年)にはすでに存在していたと考えられます。その後、宇多天皇(867~931年・在位887~897年)から四代にわたり、天皇在位中の詩宴の場として、また後院(譲位後の上皇の御所)として、この地が長く利用されました。しかし、天暦4(950)年に火災にあい、村上天皇(926~967年・在位946~967年)の時に再興されたものの、以降は朱雀院への行幸などの記録がほとんどないことから、後院としての重要性は薄れて衰退していったようです。
 朱雀院の推定敷地(右京四条一坊一町~八町・東西約250m×南北約510m)内におけるこれまでの発掘調査の事例は少ないですが、平安時代の建物の跡が数棟確認されています。しかし、これまでに発掘された建物跡はいずれも朱雀院の推定敷地の南か北に寄っていて、中央に近い場所は大きな調査が行われていないため、その実態がほとんどわかっていません。
 平安京右京四条一坊七町の区画内に位置する今回の発掘調査地は、朱雀院の推定敷地の比較的中央に近い場所となります。

発掘調査の内容

時  代 発掘した遺構
平安時代 掘立柱建物跡
中世 土坑、溝
近世~現代 耕作溝
時  代 発掘した出土品
平安時代 土師器、須恵器、黒色土器、緑釉陶器、灰釉陶器、瓦など
中世 土師器、須恵器、磁器、植物種子
近世~近代 陶器、磁器、瓦、金属製品

発掘調査の成果

 今回の発掘調査で、平安時代の遺構としては、朱雀院関連の建物を1棟、その建物を構成する柱を据えた穴(柱穴)11基を検出しました。
 大きい柱穴のほとんどは上から見ると方形をしていて、その中に柱材が入っていた丸い穴があり、穴の底に根固め(柱の腐植防止などのため)の石が残っていました。建物跡の全貌は不明ですが、大きい柱穴8基の並び方から、東西は3間以上、南北は3間の東西棟の掘立柱建物であることがわかり、穴と穴との間隔は東西では2.7m、南北で2.4mでした。また、建物跡の南側に小さめの柱穴が3基並んでいることから、南側に庇(ひさし)が付く掘立柱建物だったようです。北側は調査範囲外のため、庇の有無は不明です。
 この建物跡から出土した土器は9世紀前半のものが多く、この建物がその頃に建てられたと考えられます。
 つまり、これまで朱雀院推定地では南北部分に建物の存在がわかっていましたが、今回の調査でより中央に近い七町内にも建物が存在していたことがわかりました。しかし、9世紀後半にこの建物は廃絶して、それ以降に目立った遺構がないことから、この建物の廃絶後は朱雀院内でもこの場所が空地であったと考えられます。そして、その後の時代は耕作地に関連する遺構が重なり、近世以降も現代にいたるまで耕作地として利用されていたようです。
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    平安時代の掘立柱建物跡  

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    柱穴と根固めの石  

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    測量作業の風景  

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    遺物検出作業の風景  

有限会社京都平安文化財2013『平安京右京四条一坊七町(朱雀院)発掘調査報告書』京都平安文化財発掘調査報告第1集 より

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