
過去の発掘遺跡紹介
| 所 在 | 京都府京都市中京区西ノ京勧学院町3、西ノ京南聖町2 |
|---|---|
| 計画機関 | GOLDFOREST 株式会社 様 |
| 調査期間 | H30/8~H30/9 |
| 発掘面積 | 180㎡ |
| 現地説明会 | 2018年9月15日実施 現地説明会資料 |
調査地は、平安京左京一坊四町北東部の東端から坊城小路をはさみ五町の北西部の西端に及びます。朱雀大路(現千本通り付近)の1本東側に並ぶ坊城小路は、四町と五町の間を南北方向に走る平安宮大内裏の南面正門の朱雀門(現千本二条付近)にも近く、宮の東南という京域内の一等地に位置しています。平安宮の西・南・東側に接する左京の各坊は、諸司厨町と総称されているように、各役所の関連施設や天皇家、藤原家などの上級貴族の宮殿や邸宅が建ち並んだ地域でした。
左京三条一坊内では、一・二・七・八の計4町は国の大学寮、四町には在原家系の奨学院、藤原家系奨学院、六町には和気清康呂の私宅を教育機関とした弘文院などの国立や私立の大学や、付属施設が多く建ち並んでおり、三町には左京職が設置されて京を運営・維持する重要な役務を執行していました。そして、一坊の東半分の九から十六町の計8町には広大な規模に及ぶ神泉苑が桓武天皇によって造営されていました。
左京に対して朱雀大路をはさんだ右京一坊には穀倉院右京職が設置されていて、また右京三条一坊六町(藤原良相邸)の西三条第(百花亭)では「三条院釣殿高坏」と記された墨書土器が出土しています。
そうしたことから、平安時代前期には左京・右京の三条一坊周辺は教育・文化の核となる重要な場所だったといえます。
しかし、調査地は神泉苑の大池のある低地側に位置していて、扇端以下の低地は扇状地下の伏流水が湧き出るため湿地が形成されることが多く、三条一坊の神泉苑より西側は、右京や朱雀大路と同様に平安時代後半期となる中期後半以降には序々に衰退が進んでいったようです。
| 時 代 | 発掘した遺構 |
|---|---|
| 平安時代前期~江戸時代末 | 道路・側溝・土坑・井戸 |
| 時 代 | 発掘した出土品 |
|---|---|
| 平安時代前期~江戸時代末 | 土師器・須恵器・緑釉陶器・硯・軒丸瓦・平瓦 |
今回の調査では、平安時代前期のかなり早い段階に造成されていたと見られる坊城小路の東西両側溝とその間にある小礫敷状を呈する路面を調査し、記録を得ることができました。平安時代前期の遺構は、砂礫主体の地山直上の整地によって形成されていました。
調査第1面(西から)
調査第2面(西から)
溝2出土 土師器・須恵器・緑釉陶器
(平安時代前期)
湿地帯から出土 陶磁器
(平安時代前期以降)
重圏文軒丸瓦
| 2019 | 『平安京左京三条一坊四・五町』京都平安文化財発掘調査報告第5集 (6.42MB) |
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