所 在 |
京都市右京区嵯峨天竜寺若宮町 25-1他 |
計画機関 |
株式会社 大京 様
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調査期間 |
H28/3~H28/10 |
発掘面積 |
1,302㎡ |
現地説明会 |
2016年7月2日実施 現地説明会資料 |
嵯峨遺跡と今回の調査地について
京都盆地の西端、嵯峨地域では縄文時代の人の営みも確認されていて、古墳時代から古代には秦氏が開発を進めた地として知られ、秦氏関連と考えられる古墳も多く築かれています。そして、平安京遷都の前後からこの嵯峨地域は禊の場として利用され始め、天皇の離宮が築かれていき、その離宮が寺へと変わることで次第に仏寺の建ち並ぶ参詣の地となっていきました。
嵯峨地域中心部に大きく分布する嵯峨遺跡は、平安時代から鎌倉・室町時代にかけて、天皇の離宮やその後建立された臨川寺・天龍寺などの大寺院を中心に街区を形成していたと考えられる複合遺跡です。今回の調査地はこの嵯峨遺跡の一画に該当し、嵯峨街区の南北方向の道「薄(芒)馬場」と東西方向の道「今厨子」(現・丸太町通)の交点南東部にあたります。こうした嵯峨地域の道路は現在も当時の位置を踏襲しているものが多く、現在の地図と中世嵯峨の最盛期を描いた『応永鈞命絵図』を比較すると、調査地は「在家」と記された地点に当たることがわかりました。このことから、おそらく当該期には調査地が寺家地や武家地ではなかったと考えられます。また、絵図からは、調査地の南隣に「永安院」が建っていたことも絵図からわかります。
発掘調査の内容
時 代 |
発掘した遺構 |
平安時代~江戸時代 |
土坑墓・掘立柱建物・井戸・溝・土採取坑 |
時 代 |
発掘した出土品 |
平安時代~江戸時代 |
須恵器小壺・土師器皿・瓦器類・中国製青磁類・国産陶磁器類・ 瓦磚類・石材・石製硯・木製品 |
発掘調査の成果
古代の嵯峨地域の条里は、南北軸が西に15度程度振れる方位をとるとされています。中世からは正方位に合った建物や道がつくられてくると考えられ、天龍寺や大覚寺の江戸期に再建された建物はほぼ正方位です。しかし、現代でも嵯峨地域の道路や地割の多くは古代条里に基づくものが残っています。
今回の調査で検出した遺構は、現代の耕作溝や江戸時代の土採取坑などは正方位に近く、室町時代以前の遺構はそのほとんどが北が西に振れていました。出土遺物から9世紀後半と考えられる土坑墓は南北軸が古代の嵯峨の条里の角度に非常に近いもので、室町時代後期の遺構と考えられる建物4棟と第1調査区南端の溝は、古代の嵯峨条里の傾きからやや正方位に近づいた角度をもっていました。このことから、遺構の方位と年代の関係は、基本的には嵯峨条里の方位から年代が降ると正方位へと変化している事が確かめられました。
第1調査区で検出した建物3棟は方位がはぼ同じであり共通して10尺を基準にした計画的配置がうかがえることから、同時に建てられた可能性が高く、この建物が中世絵図にみる「在家」にあたるのではないかと考えられます。そして、遺物の年代や遺構の方位がこの建物3棟と共通している第1調査区南端の東西溝は、この「在家」の南境を示すものではないかと考えられ、これより南は絵図の「永安院」にあたると推測できます。
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第1調査区 井戸
(室町時代)
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井戸底出土 土台木材
(室町時代)
第1調査区では石積み側の井戸が1基検出されました。井戸底部には角材を井桁に組んだ土台が敷かれ、その上に人頭大の河原石が積まれています。この井戸は建物2の中にあり、建物の柱列との位置関係や井桁の方向と建物の方位の一致から、建物2と同時に設けられた可能性があります。
また、第2調査区でも室町時代の井戸を1基検出しており、その埋土からとても状態の良い曲物が出土しました。部分的に腐朽しているものの下方は箍(たが)が嵌った状態が良く残り、全体が復元できます。側材の内側、重なり合う部分には縦方向に浅い刻みを入れており、表面仕上げとみられます。
両井戸からは共通して粘板岩の石材片の出土があり、第2調査区の井戸からは粘板岩の石材で硯を作ろうとした未製品(未完成のもの)が出土しています。また、別の室町時代の遺構からも粘板岩の硯と硯の未製品が出土しました。石材片はいずれも製品になる部分を取った後の端材で、切断面がよくわかります。近くで硯や砥石の石材となる粘板岩が採れる嵯峨地域は昔から工芸品として石製品を生産してきたことがわかっています。しかし、いつからそういった石製品の生産が行われているのかはわかっておらず、今回の調査で少なくとも15世紀末から16世紀初めには行われていた事が明らかになりました。
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井戸出土 曲物
(室町時代)
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曲物側材内側の刻み
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石硯・石硯未製品
(室町時代)
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石硯用と考えられる石材
(室町時代)
南隣の「永安院」との敷地を分かつと考えられる第1調査区南端の溝からは多くの瓦が出土しています。そのなかでも特徴的な瓦に「行基葺」式丸瓦があります。一般的な丸瓦は重ね葺きのために一方の端部に段を持つ有段式であるのに対して、行基葺式丸瓦は段を持たず一方の端部を細く作ることで重ね葺きを可能にしています。この溝から出土した丸瓦は有段のものがみられず、型式がわかるものは全て行基葺式でした。行基葺式の瓦は現存する建物では全国各地にあり、創建年代も奈良時代から室町時代のものまで幅広いです。また、瓦が使用される建物も本堂や塔、門など様々でそれらに共通項が見出せない、不思議な型式の瓦なのです。今回の調査で出土した行基葺式丸瓦の年代観は、京都市伏見区の宝塔寺に現存する多宝塔(重要文化財)の時期に近いと思われ、15世紀前半頃と考えられます。
この第1調査区南端の溝から出土した瓦は検出状況から調査区南隣の区画で使用されていた可能性が高く、絵図でみる「永安院」の瓦と考えることができます。絵図によると天龍寺の子院であったことがわかる「永安院」ですが、それ以上の資料はなく詳細はわかりません。ただ、溝から出土した瓦の多くは二次的な火を受けて橙色化しており、嵯峨一帯を焼いた「応仁の乱」(1467~1478)との関係をうかがわせます。今回の調査では調査区外にあたる南隣の「永安院」に謎多き行基葺式瓦が用いられた建物があったことを示唆することができ、それらが応仁の乱の戦火を受けた可能性が高いことを明示できた点でも、とても有用な調査だったといえるでしょう。
また、今回の調査により出土した室町時代から戦国時代頃の土器・陶磁器類のほとんどは、在地産のものではなく中国からの輸入品か国内各地からの搬入品であり、その様相は京内の水準とほぼ同じといえます。天龍寺と、この地に居住した豪商角倉家が関与して大きく発展する日明貿易の恩恵が、この地にもたらした経済的豊かさを如実にあらわす出土遺物の内容となりました。
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溝出土 行基葺式丸瓦
(室町時代)
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輸入青磁・国産陶器
(室町時代)
最後に、今回の調査のハイライトといえる中世の遺構ではありませんが、江戸時代の遺構でひとつおもしろい発見がありましたので、ご紹介いたします。
第2調査区の西寄りで土採取坑とみられる土坑群を検出しました。茶褐色シルトの土層に掘り込まれた土坑で、不定形のものが近接しています。いずれの土坑も底や壁面が砂礫層になるか土層が暗褐色土に変わるところで掘削を止めていることから、この茶褐色シルトの土の採取を目的に掘削した痕跡、「土採り坑」であることがわかります。この土は焼物には適さないので壁や築地に利用するために採取したものと思われます。そして、この土坑群の埋土にはわずかに江戸時代後期の遺物を含むものの、包含していた遺物のほとんどが室町時代後半のものであり、江戸時代後期に土採りのために極めて短期間で掘削した後、時間を置かずに掘り返した土(不要な土)をすぐにまた土坑に戻して、埋め戻していたこともわかります。
直立またはオーバーハングする土坑壁や土質が変わるところで掘削の手を止めている様子からは、土採りという明確な目的を持った掘削であったことがよくわかり、不定形の土坑が多数掘られている状況からは、目的の土を掘り尽くせば隣へ隣へと場所を変えた様子もリアルに見えてきます。当時の掘り主の面影が目に浮かぶようで、とてもおもしろい遺構でした。
発掘調査成果報告書