京都 遺跡発掘調査 有限会社京都平安文化財 調査のながれ

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過去の発掘遺跡紹介

長岡京左京三条三坊十六町跡

所  在 京都市伏見区久我西出町 5番15
計画機関 京阪セロファン 株式会社 様
調査期間 H30/12~H31/3
発掘面積 1,120㎡
現地説明会 2019年3月2日実施 現地説明会資料

長岡京跡と今回の調査地について

 今回の調査地は京都盆地の南西部、旧乙訓郡域の中位北半に所在し、当地域は桂川西岸沿いの低地帯となっています。海抜は現地表面で11.5m前後で、京都盆地の中でも最も低い地帯なので、元来人々の居住には不向きな水田耕作向きの土地であり、現在も未開発の水田地が多く残っています。
 旧乙訓郡域の縄文時代以前の遺跡は不鮮明ですが、稲作を伴う弥生文化の定着は比較的早い段階で、調査地から南に2㎞程の雲ノ宮遺跡では京都盆地内で最も古い弥生前期の環濠集落が確認されています。また、調査地周辺では調査地の南西に鶏冠井清水遺跡、北西に鶏冠井遺跡、北北東に東土川遺跡が所在し、いずれも弥生時代中期以降の遺跡として知られています。このような調査地周辺の遺跡の調査からも、弥生時代から低湿地帯は水田耕作地として利用され、居住域は微高地を利用して形成されていた事がわかります。当地域でのこのような土地利用の仕方は奈良時代まで継続し、奈良時代末期に画期を迎えます。
 奈良時代末期、この旧乙訓郡域に突如として京が置かれることになりました。存在期間784年~794年という、わずか11年弱の短命な京、「長岡京」です。当調査地はこの長岡京の「左京三条三坊十六町」にあたります。同十六町は宮城南に通る二条大路に面した一等地ともいえる場所でした。しかし、狭い乙訓郡域に平安京にも匹敵する広大な京を置いたことで、左京域は桂川と桂川西岸に広がる低地帯に重なることとなり、左京域の南東部はこれまでの調査でかなり広い地域が長岡京期に京域としての開発がなされていなかったことがわかっています。このような未完の都において当調査地の所在する左京三条三坊十六町界隈も昭和以前には長岡京期の遺構は無いものとの見方がありましたが、平成以降低地帯の再開発が進み発掘調査の件数が増すと、調査地周辺にも長岡京期の建物跡が多く確認されるようになり、これまでの長岡京左京域の土地利用の見方を覆すこととなりました。
 平安時代以降、当地周辺の低地帯は再び水田耕作地としの土地利用に戻ります。長岡京期に建てられた建物などの遺構群は、長岡京廃絶後すぐに廃棄された可能性が高く、長い日本史の中のほんの僅かな瞬きの如き長岡京期にのみ、当該地域は一瞬の輝きを見せたといっても過言ではなく、以降は現代まで当地の大半が長閑な田園風景の一部となって静かに歴史を紡いできました。
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発掘調査の内容

時  代 発掘した遺構
弥生時代 流路遺構・柵(しがらみ)
長岡京期~平安時代 建物跡・流路遺構
中世 小溝群・暗渠遺構
時  代 発掘した出土品
弥生時代 弥生土器・石製品・木製品
古墳時代 土師器
長岡京期~平安時代 土師器・須恵器・布目瓦・土馬・輸入白磁
中世 瓦器・羽釜・古銭

発掘調査の成果

 今回の調査では、大きく3つの時期に分けて遺構が確認できました。発掘調査を始めて最初に検出した遺構面は平安時代以降の耕作用整地土層で、湿気抜きあるいは保水を目的とした耕作関係の小溝群と溝状遺構(暗渠)を検出しました。そして、その耕作面と同じかその直下に長岡京期の建物3棟が成立していた長岡京期の遺構面を確認しました。さらに、その長岡京期の遺構面ですでに検出していた埋没流路を掘り下げて、弥生時代から古墳時代に流路内に設置されたとみられる柵(しがらみ)遺構を検出しました。
 以下では、長岡京期の遺構と弥生時代から古墳時代の柵(しがらみ)遺構に焦点をあててご紹介します。
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image  長岡京期の遺構は、調査区の南西1/4を占める範囲から東西棟の建物1が、そして調査区東寄りから南北棟の建物2と建物3が東辺を連続させて検出されました。この3棟は軸線の共有性や配置関係から、ひとつの邸宅敷地内に共存していた建物群の一部と考えることができ、その規模や配置から建物1が正殿、建物2と建物3が東脇殿にあたるのではないかと推測できます。
 建物1~3の3棟はいずれも掘立柱建物です。
 建物1は2間×5間の身舎に南北各1間の庇が付きます。建物1の柱穴には柱根が残るものが多く、その直径は30㎝前後でした。興味深いことにその柱穴の掘方(柱を立てるために大きく掘り込んだ穴)の埋土からは長岡京期の瓦片を検出しており、このことから建物1の建立時期が長岡京建都初期ではなかった可能性がでてきます。
 南北に併設された推定脇殿の南側が建物2、北側が建物3になります。両建物は東西梁間2間で南北桁行は建物2が5間以上、建物3は4間以上の規模になります。両建物間は2間分空くものの東辺の柱穴は連続しており、東壁は一連のものであった可能性が高いです。また、建物3の南辺は庇が付くような柱構造となっています。
image  1980年頃の発掘調査で、平安京右京一条三坊九町において平安時代初期の建物群が確認されています。東西棟2間×7間で南北に庇が付いた正殿と、南北棟2間×5間の2つの建物が東壁を連ねて南北に並び建つ東脇殿、さらに正殿を挟んで東脇殿と対になる西脇殿、そして正殿の北に東西棟2間×7間の後殿という建物群です。
 この平安京右京一条九町の建物群は、今回の調査で検出した正殿・東脇殿と考えられる3つの建物と、規模や柱間尺に違いはあるものの棟の向きや配置においては酷似しており、今回調査した長岡京左京三条三坊十六町においても調査区外の西に西脇殿、北に後殿が建てられていたと推定することができます。比較した両建物群は、長岡京と平安京とで場所は違えど、建物の成立時期は近く、同一の施工者である可能性も無とは言えない狭い時期差の中で建てられており、両建物群の関係性はなかなか無視できないものです。今後の両京での調査成果に期待したいところです。

 長岡京期の遺構は建物の他に流路が1本ありました。建物1と建物2・3の間に位置し北から南へと流れる幅2~3mの流路で邸宅内にて用水路として機能していたと考えられます。この流路1が整備されたのは、掘り下げて調査した結果、驚くことに、弥生時代中期であることがわかりました。
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    流路1と流路2 南から
    (弥生時代~古墳時代)

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    流路2内の柵(しがらみ)遺構 北から
    (弥生時代~古墳時代)

 弥生時代から古墳時代には流路1のすぐ東に並行して幅8mほどの流路2が流れていました。流路2も底部や側壁に人工的な整備が加わっており、用水路として利用されていたことは明らかですが、一から掘削して設定したというよりも、現在は調査地西方から南方に流れを取る西羽束師川の旧流路の1つとしてあった自然河川を利用して用水路に整備したのではないかと考えます。今回の調査地から南東に300mほどの長岡京左京三条四坊六町の発掘調査で、北西から南東へと流れる流路が確認されていて、今回検出した流路2とは堆積土や出土遺物などの共通性が高く、連続した流路であったと推測でき、緩やかに南流して桂川との合流部へ向かうものと考えられます。
 今回の調査では、興味深い遺構として、この流路2の調査区南端から柵(しがらみ)遺構を検出しました。流路2は埋没後も地下で流水・保水が継続していたようで、そのために柵や流木といった樹木由来の遺構や堆積物が腐食せずに残存していました。柵は通常、流路内に杭を打ち並べて水を塞き止めたり流れを調整する目的で設置されます。今回検出した柵の設置時期は、杭の根付近から出土した土器の年代から、流路の整備と同時期の弥生時代中期後葉頃に比定できます。構造としては、流れに直交する形で径20㎝ほどの太めの横木を設置し、その上流側に横木に直交して杭を櫛歯状に隙間なく並べて根は流路底部に埋めています。柵遺構は西半部が調査区南壁に延びており全容は分かりませんが、おそらく流路2の西壁まで施工されていて、ダムのように水を塞き止めることである程度の水量を常に貯水しておき、安定的に田畑を灌漑するために用いられていたと考えられます。
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    弥生土器

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    長岡京期の土師器

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    長岡京期の須恵器

 今回の発掘調査で出土した遺物はさほど多くないですが、時期としては縄文時代から近代まで継続的に認められます。遺物が多数出土している時代は弥生時代中期後葉と長岡京期で、その他の時代の遺物は小片かつ量も極めて少ないです。
 弥生時代の遺物は、流路1と流路2から土器を中心に出土し、流路2からは柵構成材や道具類の木製品が出土しています。土器は煤の付着した甕など、使用痕の認められるものも多く、生活用具が主体を成しています。弥生時代後期以降はしばらく出土遺物の乏しい時代が続き、長岡京遷都の時期になると遺物の出土量は急増します。
 長岡京期の遺物は土器・陶器・瓦が主体を成します。土器・陶器類は皿・埦などの食器と土師器甕などの煮炊き具、須恵器の壺・甕などの貯蔵具があり、一般的な生活用具が大半ですが、須恵器の硯片や三彩と同系である緑釉単彩陶器の火舎の破片といった上層の所有物ともいえる遺物が少量ながら確認でき、当地の邸宅に住まった者の格の高さを示すといえます。瓦類は、軒瓦がほとんど無く年代特定が難しいものの技法痕跡などからみると長岡京期のものと考えられる瓦片が、長岡京期の建物1の柱穴から出土しています。このことから11年弱という短い長岡京の存在期間において、建物1が最初期に建てられた建物ではなく、少なくとも初期建物が一度壊れて使用していた瓦が瓦礫と化した後に建てられた可能性を、強く示す物証であるといえます。
 長岡京期より後の時代になると出土遺物は激減します。12~14世紀頃に若干出土量が増加しますが、これは近接する久我などの中世村落成立が影響しているのかもしれません。その後も近現代に至るまで耕作地帯であり続け、当地に再開発の手が入るのは戦後になってからになります。

発掘調査成果報告書

2020 『長岡京左京三条三坊十六町跡』京都平安文化財発掘調査報告第10集

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