京都 遺跡発掘調査 有限会社京都平安文化財 調査のながれ

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過去の発掘遺跡紹介

中臣遺跡2019(第93次)

所  在 京都市山科区勧修寺東栗栖野町・椥辻番所ヶ口町 MAP
計画機関 根木建設工業株式会社 様
調査期間 2019年7月29日~9月4日
発掘面積 175㎡
現地説明会 2019年8月31日実施 現地説明会資料

中臣遺跡について

image  中臣遺跡は、東に山科川、西に旧安祥寺川に挟まれた地域で栗栖野丘陵一帯に広がる集落遺跡です。
 古くは旧石器時代のナイフ形石器の発見や、縄文時代の土坑、弥生時代から古墳時代の竪穴住居が数多く発見されています。また 6 ~ 7 世紀頃には旧安祥寺川左岸に、「中臣十三塚」と呼ばれる横穴式石室の古墳も造られました。
 1969 年に地元の方が中臣神社に隣接する公園において弥生土器を採集したのが中臣遺跡発見のきっかけです。第 1 次調査が 1971 年に行われ、以降、中臣遺跡調査団 ・ 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 ・ 京都市文化財保護課によって調査が行われました。
 中臣遺跡の中臣とは、歴史の教科書に出てくる大化の改新に関与した中臣鎌足(後に天智天皇から藤原姓を与えられる)が、この地に縁があることに因んで中臣という地名が付けられました。
 しかし、当遺跡と中臣氏との直接的関係を示せる根拠はいまだ無く、山科盆地の北に位置する天智天皇陵とその西側隣地の中臣鎌足邸宅推定地(日ノ岡)との関係も理解に入れながら、今後の京都の考古学の課題として追究していきたいと思います。

発掘調査の内容

時  代 発掘した遺構
古墳時代~古代 河岸段丘崖・古墳周溝?(残欠か)・竪穴建物・掘立柱建物・土坑ほか
近世以降 礎石建物・溝ほか
時  代 発掘した出土品
縄文時代~古墳時代初頭 縄文土器(深鉢)・弥生土器(壺・甕ほか)
古墳時代後期~古代初頭 須恵器(坏蓋・甕)・土師器(長胴甕か?)ほか

発掘調査の成果

 当調査地は、平成10~11年頃に京都市営勧修寺第二市営住宅建設に伴って実施された中臣遺跡随一の発掘面積となる77・79次調査の調査地の直ぐ南側にあたります。
 今回の発掘調査により検出できた遺構は、7世紀~8世紀初頭と見られる竪穴住居址(建物4)・掘立総柱建物(建物2・3)、小方形古墳の周溝残欠の可能性もあるL字状の溝等で、北に隣接する大規模調査地(79次)で検出された遺構群と同様の様相をみせています。また、79次でも確認されていた南北に走る河岸段丘崖の続きとみられる深い落込み傾斜も今回の調査で確認でき、段丘崖の上面に古墳時代から古代にかけての住居址や小型墳が営まれていたことがわかります。周辺の調査成果と合わせて見ても、やはり古墳時代末から飛鳥時代・古代の初めにかけてこの地域一帯に大規模な集落が築かれていたことは明らかで、その時代に台頭した藤原・中臣氏との関係を切り離して考えることは難しいのかもしれません。
 段丘崖上面の古墳時代から古代にかけての遺構面及びその上層の包含層からは、該当する時期の土師器や須恵器が一定量出土している他、それよりも古い時期の弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての遺物も残りの良い個体を含め一定量混在しているため、遺構は残存していないものの、弥生時代から古墳時代の初頭にかけても、当調査地かその付近で人びとの営みがあったものと考えることができます。
 奈良時代の後期以降に比定できる遺構や遺物はほぼ無く、集落の廃絶をうかがう事ができ、新しいものでは江戸時代後期以降と見られる礎石建物(建物1)と遺物が少量となっています。この時期の建物は、段丘崖の傾斜を埋土により整地した上に建てられていたものと考えています。
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    第2調査区全景(南東から)

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    第1調査区西半・第2調査区全景(北東から)

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image  今回の調査において出土した土師器・須恵器は、中臣遺跡が7世紀第3四半期から同第4四半期頃に盛期があった事をよく示す様相でした。
 古い時代のものでは、少量の縄文土器片(深鉢ほか)と弥生時代後期から古墳時代初頭頃までの幅をみるべき弥生土器(甕・壺・台付鉢ほか)が一定量確認できます。
 中臣遺跡の盛期とみられる古墳時代末期~飛鳥時代(7世紀頃)を中心とする土師器・須恵器は、山城から近江南部で通有にみられる受け口状の土師器甕や丸底の小甕が中心で、食器類も大和南部でみられる土師器坏類が多く、須恵器も畿内系(陶邑系)の坏・壺・甕等であり、畿内では一般的な様相といえます。この時期の遺物の出土状況は包含層からの出土が多いですが、建物2・3・4の遺構内からも一定数出土しています。
 遺物からうかがう事のできる当調査地における中臣遺跡の盛期は、弥生時代後期から古墳時代初頭にひとつの山があり、その後7世紀後半の中臣氏台頭の時期に大きな山を迎えるといえます。
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発掘調査成果報告書

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