所 在 |
京都市伏見区桃山町泰長老176-6 MAP |
計画機関 |
株式会社大京 様
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調査期間 |
2015年4月21日~7月31日 |
発掘面積 |
601㎡ |
現地説明会 |
2015年6月20日実施 現地説明会資料 |
伏見城跡・指月城跡について
当該地域は安土桃山時代の伏見城跡の遺跡範囲に含まれます。豊臣秀吉はこの桃山丘陵に二つの城を築城したとされています。現在の明治天皇陵付近に築城された木幡城と、その木幡城より前に建てられたとされる指月城、その二つの城を伏見城と総称しています。今回の発掘調査地は、その中でも先に築かれた指月城の遺跡範囲内に位置します。
豊臣秀吉はまず1592年に隠居屋敷としてこの指月の丘に屋敷を構え、翌年には城として改築拡大の方針を打ち出したとされています。淀城を破却してその天守を移築したり、聚楽第を破却して木材を指月へと運んだりと、大がかりな築城を行った記録がありますが、不運なことに指月城は築造半ば、1596年の慶長の伏見地震により城郭施設の多くが倒壊してしまいました。そして、この地震に因る倒壊の翌日には、木幡山での伏見城築城の命が下されたそうです。その後、指月城を破棄した指月の丘は木幡伏見城の城下の一部となり、大名屋敷が築かれたとされています。
伏見城跡の遺跡範囲内ではこれまでの発掘調査等で、城下町の石垣などが数地点で見つかっていますが、絵図類が残っていない指月城について、城郭範囲や詳しい様相をうかがえる成果は乏しく、一部ではその城郭としての存在すら否定的な見方もありました。しかし、ここ数年の当該地域の発掘調査により、ほぼ確実に指月城の遺構であろうと考えられる調査成果を得ることができてきて、その様相が少しずつですが明らかになっていきています。今回弊社が発掘調査を行った場所は、指月城の遺跡範囲の中でも中央部分に近く、城の中心的あるいは重要な施設があったのではないかと考えられ、注目の調査となりました。
発掘調査の内容
時 代 |
発掘した遺構 |
安土・桃山時代 |
石垣・堀・土坑・溝・小穴群 |
江戸時代後期~近世 |
溝・土坑 |
近代 |
土坑・溝状遺構(旧日本陸軍第16師団関連施設か) |
時 代 |
発掘した出土品 |
古代~中世 |
須恵器坏・甕、輸入白磁碗、瓦器埦ほか |
安土・桃山時代 |
金箔瓦・くすべ瓦、土師器、瓦器、国産陶磁器、輸入陶磁器 |
江戸時代後期~近代 |
国産陶磁器、桟瓦 |
近代 |
国産陶磁器 |
発掘調査の成果
今回の発掘調査では、中世以前の遺構は確認されませんでした。検出できた遺構は、桃山時代頃から江戸時代初頭の遺構と、江戸時代後期以降のほぼ近代遺構に属するものの、大きくこの2時期の遺構群に限られます。しかし、近代以降の土層中や近世・近代の遺構内からは、古代・中世の遺物の混入例が多く、安土・桃山時代以前にも当地に遺構が存在していた可能性を十分に示しています。
当地に構成された遺跡・遺構の多くは、江戸時代の伏見城破却後、当地を含めた桃山一帯が桃畑として利用された事や、明治時代以降の軍事施設(旧日本軍第16 師団)としての用地利用、そして戦後の団地造成に起因して多くが掘削・削平を受けて消失してしまいました。
検出することができた遺構群で新しい時期の一群とした江戸時代後期頃のものは、掘込や落込、ピット(小坑)や溝状遺構等ですが、これらも戦後の機械掘削等により大きく削られ、地山直上にわずかに残存する程度でした。対して、検出した遺構群では古い一群となる近世初頭の桃山時代から江戸時代初め頃のものは、堀や石垣等の大型の遺構を広範囲に連続する形で検出することができ、今回の調査の主目標のひとつである指月城や木幡伏見城の時期の当地の様相を知ることができる、有用な成果を得られたと言えます。
桃山時代から江戸時代初め頃の遺構として主なものは、堀1と石垣1・石垣2です。
堀1は、調査区東側を南北に掘り込んで築かれており、元々の自然の谷地形を利用して構築されたものと考えられます。検出した堀1の東西幅は、調査区北辺近くで約7m、最も広い南辺付近で約9mを測りました。深さは、約3.3m掘り下げましたが、底部を確認することはできず、本発掘調査終了後、市保護課による補足調査で、少なくともさらに1m以上は下がることを確認したそうです。
石垣1は堀1の東側に、堀1にほぼ並走するように南北約43ⅿにかけて直線的に構築されており、南北端ともに調査区外へと延びるため、全長は不明です。下部2段分積まれた主石材が確認できましたが、掘方や裏込めの状況からは少なくとも4段以上は積まれていたとみています。石垣の表面は西面しており、主石材は0.6~0.8m×0.8~1.5m程と大石が主体で、法の角度は緩く、大石の隙間に間詰石の小石が多く組み込まれている特長的な表面となっています。主石材は堆積岩の自然石が主体で、石英斑岩2 個体で矢穴が確認できますが、割り面は少なく、多くは自然石のまま用いています。一見すると、信長の安土城、旧二条城、秀吉の大坂城や聚楽第の石垣によく類似しています。ただ、石垣の下端が堀1の底部に達していないことが、他にあまり類を見ない例として、特徴的と言えます。
石垣1よりさらに深部、堀1を挟んだ対面の堀1西側壁部分から検出した石垣が石垣2です。石垣2は、検出長は短いが東側の石垣1よりも、石英斑岩の矢穴を多く残す割り石石材を主体として構築されており、法は石垣1よりもやや角度が急で、東面する表面はかなり丁寧にそろえて仕上げられていました。石垣2の南端は調査区外へと延びますが、北は調査区北区へ延びることなく、その手前で途切れるか方向を変えて西方へ延びる可能性が考えられます。下部は石垣最下部まで確認出来ませんでしたが、おそらく堀1底部近くまで組まれているものとみています。また、上部と間詰石の多くは抜け落ちて、堀1内へ落石していましたが、残存部の様相を見るかぎりでは、東側の石垣1よりも新相の印象を持ちます。ただ、石垣上部や間詰石の転落は慶長の伏見地震に起因する可能性が高く、この石垣が指月城の遺構であることを示す根拠になるといえます。
堀1の埋土は、堀の西肩側から入れられたものが数層確認出来ます。その西側からの埋土には石垣の主石材や間詰石を多く含むとともに、非常に多くの瓦片が混入していました。瓦片の多くは金箔などで装飾されたもので、このことから堀1の西側には装飾性の高い瓦を葺いた重要度の高い施設が構築されていた可能性を示唆しています。また、堀1の埋土は西側から流入して堀底を埋めて堆積し、ある程度の期間は石垣1との間に細い溝状の堀を残していたと考えられます。このように、埋土の堆積状況からは指月城段階の施設が壊れた後、堀1が埋って平坦地の一部となるまでにも複数段階の過程が想定でき、南北方向の堀1はその前身段階を含めて指月の隠居城段階から指月城段階の城郭施設の一角を形成していたとみることができます。そして、東側の石垣1、西側の石垣2はともに堀1と直接関連して構築されたものと考えられますが、石垣2よりも古い特徴を持つ石垣1の構築時期や、堀1が段階的に埋まっていく中で石垣1がどの段階まで機能していたのかなど、石垣1についての理解の課題は多く残ります。
今回出土した遺物の大半は、堀1埋土から出土した桃山時代の瓦類でした。また、堀1の埋土のなかでも特に西側から入れられた埋土に多くの瓦類が混ざっており、金箔や朱漆が施された瓦もほとんどがその西側埋土に含まれていました。
堀1埋土を中心とした今回の調査で出土した桃山時代の瓦類は、金箔や赤漆を施した瓦の割合が非常に高く、これまでの伏見城界隈の既往の発掘調査成果と比較してもその割合は突出しています。また、他の安土・桃山時代の城郭等の調査で出土している瓦と比較しても、その金箔瓦の量的割合は明確に高いと言えます。
軒瓦を含む装飾的要素を持つ種類の瓦は、その残存状況を観察するかぎり、ほぼ全てが金箔や赤漆で飾られていた事がわかりました。軒瓦類の瓦当文様は多様であり、軒丸瓦は秀吉の居城ではよくみる菊文・桐文・三ツ巴文の他、指月城関連以外でほとんど類例のない無文の軒丸瓦が一定量確認できる点が本調査での遺物の特徴のひとつです。軒平瓦も軒丸瓦の瓦当文様と対応するように、菊文・桐文・唐草文等とともに無文のものが出土しています。その他に、青海波や輪違い、熨斗瓦、鯱瓦といった軒を飾る瓦や、鳥伏間、鬼瓦、その他飾り瓦も多く出土しており、当調査地付近に築造されていたであろう建物の絢爛ぶりがうかがえます。また、軒瓦に貼られた金箔は、軒丸と軒平が重なり瓦当不可視となる部分には施されておらず、無駄のない計画的な製作体制を見てとることができます。さらに、築造されていた建物の様相を示す特徴的な瓦として、谷瓦も複数個体確認できています。谷瓦は屋根面がかち合って生じる谷部に使用した限定用途の強い瓦のひとつで、その瓦の存在から、当調査地付近に築かれていた建物が複雑な屋根構造を持ったものであったことをうかがわせます。
これらのことから、当調査地で検出した堀1の西側に、金箔や朱漆を使った瓦類を使用し、ある程度複雑な屋根構造を持った、重要性の高い建物があった可能性が想定できます。
発掘調査成果報告書