所 在 |
京都市伏見区奉行前町4番地2、5 |
ご協力企業 |
株式会社今井建設 様 |
調査期間 |
H25/11~H25/12 |
発掘面積 |
287.89㎡ |
伏見城跡・桃陵遺跡について
当調査地は日本史の中で幾度となく表舞台に現れ、歴史的に重要な地として以下のように知られています。
・桃陵遺跡…弥生時代の集落で、過去の調査では方形周溝墓7基確認されています。調査地はこの桃陵遺跡の北辺にあたります。
・伏見城跡…伏見城は1592年豊臣秀吉が指月山に築城しました。その後1596年慶長の大地震で倒壊したとされ、1597年秀吉は指月山北側の木幡山全体に大規模な城郭を築城しました。1600年関ヶ原の戦いで焼亡しましたが、その後、徳川家康が再建しました。しかし、京都の拠点二条城造営により、政治的意図が薄れ、徳川家光により廃城となります。
これまで発掘調査では、指月山期の城郭は確認されておらず、木幡山期の堀等の城郭が確認されています。
木幡山は現在、大部分が明治天皇陵など宮内庁所管のため一般は立入禁止ですが、近年の研究団体の調査で石垣等江戸初期に徳川家光に壊された状態で残っている可能性が確認されています。
今回の調査地は伏見城下で生駒讃岐守の屋敷があったことが古地図から推定されています。
・伏見奉行所…伏見奉行所は当初清水谷の所在とあり、小堀遠州の願出により1625年に当地へ移転しました。しかし、戊辰戦争1868年の鳥羽・伏見の戦い時に官軍からの砲撃で伏見奉行所は焼亡しました。
市営桃陵団地建替えに伴う発掘調査では、伏見奉行所期の石垣が検出され、同心屋敷跡と考えられる建物跡が確認されています。
今回の調査地は伏見奉行所の西に隣接しており、伏見奉行所与力組屋敷があったとされています。
▶ この他に弊社が関わった伏見城跡・桃陵遺跡の発掘調査
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伏見城跡・桃陵遺跡 伏見城跡・桃陵遺跡(京町1丁目)
発掘調査の内容
時 代 |
発掘した遺構 |
古墳時代 |
古墳周濠 |
中世 |
柱穴・土坑 |
近世 |
建物跡・柱穴・土坑・溝・溝状遺構・井戸 |
現代 |
堀状遺構 |
時 代 |
発掘した出土品 |
古墳時代 |
円筒埴輪・朝顔形埴輪・人形埴輪 |
平安時代 |
土師器・黒色土器・須恵器・瓦 |
中世 |
土師器・瓦器・瓦質土器・須恵器・磁器・瓦・銭貨 |
近世 |
土師器・土師質土器・瓦質土器・軟質施釉陶器・ 焼締陶器・陶磁器・輸入磁器・瓦・桟瓦 |
現代 |
陶器・磁器・瓦・・桟瓦・木製品・土製品・金属製品・ガラス製品
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発掘調査の成果
今回発掘した調査区ではほとんどの部分で近世の整地土層が近代に削平され、地山層上にわずかにしか残っておらず、明確に年代のわかる遺構の確認は乏しかったものの、近代・近世の整地土層から古くは平安時代の遺物が出土していることから、平安時代にも土地利用はあったと推定でき、その後豊臣期の伏見城築城から現代に至るまで人々の生活の場として繰り返し土地の改変がなされていた事が確認できました。
調査地北側に設定した第1調査区からは中世の土坑や柱穴を検出し、土坑からは哲宗元祐元(1086)年初鋳の宋銭「元祐通寶」が出土しています。
また、第1調査区西側では安土桃山時代~江戸時代初期の掘立柱建物1棟を検出しており、伏見奉行所成立時の遺構ではないかと考えられます。
調査地南側に設けた第2調査区西半では南側と西側の調査区外へ弧を描いて続く古墳の周濠の一部が確認されました。一部のみの確認のため全体の規模はわかりませんが、周濠推定直径20mと考えています。(ただ、この後、別の調査機関により調査地南側の土地が発掘調査され、同古墳の周豪の続きが確認されたそうです。規模は弊社の推定より大きいものだったそうですが、詳細は不明です。)
周濠の埋土からは少量ながら埴輪片が出土しており、墳丘あるいは周濠外に埴輪を立てていた古墳であったことがわかります。古墳に伴う遺物に土器がなかったため、細かい時期の特定は難しいものの、埴輪の種類や調整の特徴からは古墳時代後期の古墳であると考えられます。
出土遺物は、古墳時代の埴輪の他、中世の土坑に伴う宋銭、中世の土師器や瓦、近世初頭の大名屋敷に関連するものと考えられる瀬戸美濃灰釉陶器などが出土し、江戸時代前期の伏見奉行所与力組屋敷建設時期に相当する時期の陶磁器も確認されています。また、江戸時代中頃に便所甕として使用されていたと考えられる信楽の甕が土坑から出土しています。
埴輪は朝顔形埴輪や円筒埴輪の他、明確に人形埴輪とわかる頭部片が出土していて、人物埴輪片の頭頂部には穿孔が施されています。円筒埴輪外面のハケ目が一次タテハケのみであることなどから川西編年Ⅴ期、6世紀頃に比定できます。
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信楽の甕
(近世)
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朝顔形埴輪片
(古墳時代)
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人形埴輪頭部
(古墳時代)
発掘調査成果報告書