京都 遺跡発掘調査 有限会社京都平安文化財 調査のながれ

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過去の発掘遺跡紹介

伏見城跡・桃陵遺跡

所  在 京都市伏見区東奉行町5他
ご協力企業 サンヨーコンサルタント株式会社 様
株式会社藤井組 様
調査期間 H20/05~H21/04
発掘面積 3,250㎡

伏見城跡・桃陵遺跡について

 当調査地は日本史の中で幾度となく表舞台に現れ、歴史的に重要な地として以下のように知られています。

・桃陵遺跡…弥生時代の集落で、過去の調査では方形周溝墓7基確認されています。

・伏見城跡…伏見城は1592年豊臣秀吉が指月山に築城。その後1596年慶長の大地震で倒壊したとされ、1597年秀吉は指月山北側の木幡山全体に大規模な城郭を築城。1600年関ヶ原の戦いで焼亡。その後、徳川家康が再建。京都の拠点二条城造営により、政治的意図が薄れ、徳川家光により廃城となる。
 これまで発掘調査では、指月山期の城郭は確認されておらず、木幡山期の堀等の城郭が確認されています。
 木幡山は現在、大部分が明治天皇陵など宮内庁所管のため一般は立入禁止ですが、近年の研究団体の調査で石垣等江戸初期に徳川家光に壊された状態で残っている可能性が確認されています。
 当調査地は木幡山期の古絵図や城下町復元図などでは、富田信濃守の屋敷地と推定されています。

・伏見奉行所…伏見奉行所は当初清水谷の所在とあり、小堀遠州の願出により当地へ移転。戊辰戦争1868年鳥羽・伏見の戦い時、官軍からの砲撃により焼亡。
 調査地北側の市営桃陵団地建替えに伴う発掘調査では、伏見奉行所期の石垣が検出され、同心屋敷跡と考えられる建物跡が確認されています。

▶ この他に弊社が関わった伏見城跡・桃陵遺跡の発掘調査 → 伏見城跡・桃陵遺跡2013 伏見城跡・桃陵遺跡(京町1丁目)

発掘調査の内容

時  代 発掘した遺構
弥生時代 土坑・溝
平安時代 掘立柱建物跡・土坑・溝(区画L字)
鎌倉時代 掘立柱建物跡・土坑・溝
桃山~江戸初期(伏見城関連) 礎石建物跡・堀(大名屋敷等を区画する)・土坑・溝・石垣(馬出・外壁)・井戸洲浜状遺構、土坑
江戸時代(伏見奉行所関連) 礎石建物跡・堀・土坑・溝・石垣(奉行所西側)・鳥羽伏見の戦い痕跡
明治~昭和(旧陸軍関係 煉瓦建物跡・土坑・溝・石垣・石組水路・柵列・高射砲台跡
時  代 発掘した出土品
縄文時代 縄文土器(後期)
弥生時代 弥生土器(中期)
平安時代 土師器・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器・輸入磁器・瓦・刻印土器
鎌倉時代 土師器・陶磁器・輸入陶磁器・瓦器
桃山~江戸初期(伏見城関連) 土師器・陶磁器・輸入陶磁器・瓦・金属製品・木製品・石製品
江戸時代 土師器・陶磁器・輸入陶磁器・瓦・金属製品・木製品・石製品
伏見の酒造元 月桂冠の創業当時の屋号「かさぎや(笠置屋)」の銘入りの徳利も出土しました。
月桂冠大倉記念館で展示されています。
明治~昭和(旧陸軍関連) 武器(機関銃・銃剣・火炎放射機等)

発掘調査の成果

 今回の発掘調査では、弥生時代から幕末にかけての遺構が検出されました。
 大規模な遺構は桃山時代から幕末にかけてのもので、調査地東側では南北に走る堀、調査地南側では東西に走る石垣、また調査地西側では南北に走る石垣とその側溝を検出しました。
 堀は最初に造られて以降、その中にいくつかの施設が造られています。おおまかに分けると、まず堀自体が掘られ後に馬出しが造られ、その後に規模を縮小し護岸され、最後に池が造られていました。
 当初の堀は幅約15m・深度約5mであったと考えられます。また東西に走る石垣は、伏見城下の屋敷地を区画するためであった可能性があり、長さ約65mを確認しました。
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    弥生時代の流路

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    伏見城期の石垣

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    伏見城期の石垣

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    堀の完掘状況

 そして、南北方向に走る石垣とその側溝は、伏見奉行所の西限となるもので、長さ約45mを確認しました。この石垣と側溝は今回の調査地北側の市営桃陵団地建替に伴う発掘調査で検出された石垣と側溝に続いていくものです。石垣と側溝を覆っていた土には鳥羽・伏見の戦いで焼けたと考えられる焼土が混ざっているものでした。その時に撃たれた砲弾が炸裂せずに堀の中に突き刺さったままの状態を検出しました。
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    伏見奉行所の池

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    伏見奉行所の石垣と水路

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    伏見奉行所の石組水路

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    堀内の砲弾

 出土遺物も弥生時代から幕末にかけてのもので、特に堀の中からは桃山時代から幕末の土器・瓦・木製品・金属製品と様々なものが出土しました。
 中でも、瓦と金属製品に金箔貼のものがいくつか出土しており、金箔貼の瓦は桃山時代から江戸時代初期のもので、金属製品は江戸時代中期以降のものと考えられます。
 また、伏見奉行所の石垣と側溝を覆っていた焼土からは江戸時代後期や幕末のものと考えられる土器が多量に出土しました。他に瓦も出土しており、側面に「享保十一丙午年七月吉日」と彫られた鬼瓦が出土しました。
 以上、ここでは桃山時代以降を主に記しましたが、調査の結果、当地は弥生時代から幕末にかけて、継続的に利用されていたことが判明しました。
 特に伏見城が築城されて城下町整備により武家屋敷となり、江戸時代には伏見奉行所として機能していたことが再確認されました。
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    九十三式火炎放射機

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    三十年式銃剣鞘

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    鬼瓦

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    金箔キセル

西近畿文化財調査研究所「伏見城跡・桃陵遺跡資料」
西近畿文化財調査研究所2010『伏見城跡・桃陵遺跡発掘調査報告書』公務員宿舎伏見住宅(仮称)整備事業 より

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